「あおいちゃん、いいかな」
ノックすると、ドタバタと音がした後で、あおいが慌てた様子でドアを開けた。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫です。別に私、寝てた訳ではないですから」
「……寝てたんだね。いいよ、そんな言い訳しなくても。ここはあおいちゃんの部屋なんだし、好きにしてたらいいんだから」
「で、ですから私、ちゃんと起きてましたです」
「分かった。あおいちゃんは寝てなかった。これでいい?」
「はいです」
そう言ったあおいの笑顔に、また直希は見惚れてしまった。
「それで直希さん、何かご用ですか?」
「あ、ああそうだった。晩御飯の用意が出来たから呼びに来たんだ。お昼にあれだけ食べたんだし、まだお腹、空いてないかな」
「晩御飯! 私もご一緒していいんですか!」
「あ、やっぱり食べられるんだ。じゃあ食堂に行こうか。ついでにみんなに紹介するから」
「みなさんに?」
「うん。みんな食堂に来てるからね。こういうのは早めに済ましておく方がいいから」
「わ、分かりましたです、よろしくお願いしますです!」
「あ、いや……俺にはもういいからね」
* * *
「えーっと、食事中にすいません。食べながらで結構ですので聞いてもらえますか。
じいちゃんばあちゃんから聞いてると思いますが、今日からこのあおい荘に、新しいスタッフが入りましたので紹介させていただきます。さ、あおいちゃん」「は……はいです……」
「名前は風見あおいちゃん。年は23歳だそうです。今日は長旅で疲れてたみたいなので、みなさんと一緒にゆっくりしてもらいますけど、明日からしっかり働いてもらおうと思ってます」
「あ、あの……」
栄太郎や文江を含め、6人の視線があおいに注がれる。あおいは
終点の駅に着いた直希とつぐみは、駅から出ると近くのコンビニでパンとジュースを買った。 少し歩くと、海が見えてきた。 直希たちは、かなり遠くの街にまで来た気になっていた。しかし実は、直希たちの住む街から二駅ほどの所で、今見えている海も、言ってみれば直希たちがいつも見ている海なのだった。 堤防の石段に腰掛け、一緒にパンを食べて笑い合う。「おいしいね」「私のもおいしいわよ。食べてみる?」「いいの?」「代わりにナオちゃんのも、少し頂戴ね。はい、あーん」「あーん」「どう? おいしいでしょ」「うん、甘くておいしい。じゃあお返し。あーん」「あーん」 * * * 食べ終わった二人は、陽の落ちた海岸で手をつなぎ、静かな海を見つめていた。「つぐみちゃん、これからどうするの」「そうね。まずはお家を見つけるのよ。それから二人で、どこかで働くの」「お家って、どうやって見つけるの?」「分からないけど……でも大丈夫よ。私たちは結婚するんだから、そう言えば、誰かがくれるはずよ」「そうなんだ。つぐみちゃん、やっぱりすごいね」「お仕事だって見つかるから、心配ないわよ。でも朝になってからね。今日はもう遅いから、大人もそろそろ寝る時間だし」「じゃあ、僕らはどこで寝るの?」「それは……あそこでいいんじゃないかしら」 そう言ってつぐみが指を差した場所。それは海の家だった。「でも、誰もいないよ」「あそこは夏にしか開いてないのよ。だから誰もいない。隠れるのにちょうどいいでしょ?」「隠れるって、誰から?」「お父さんたちが探しに来るかもしれないから。私たちの結婚に反対してるんだから、当然でしょ」「そう……だね、そうだよね……あっ」
しばらくして、東海林とつぐみは直希の家へと向かった。「あの……ナオちゃん……」 直希の部屋に、つぐみが恐る恐る入っていく。 部屋では直希が、先ほどのつぐみの様に膝を抱え、顔を埋めていた。 時折小さく肩が動く。どうやら家に帰ってからも、ずっと泣いていたようだった。「ナオちゃん、その……さっきはごめんね」「……」「私ね、ナオちゃんがその……悪口を言ったって思ったの。べっぴんさんってどういうことか、分からなくて……それでね」「……もういい」「え……」「もういい! つぐみちゃんなんか嫌いだ! べっぴんさんって言ったら、つぐみちゃんが喜ぶって母さんが言ってたのに……つぐみちゃんも母さんも嫌いだ!」「ナオちゃん……」「つぐみちゃんのこと、大好きだったのに……喜ぶって思ったのに……」「ごめんなさい。お願い、許して」 つぐみがそう言って、直希を抱きしめた。「ごめんなさいナオちゃん、許してください。お父さんから、べっぴんさんがその……綺麗だって教えてもらって……私、嬉しかった。そしてね、ナオちゃんにひどいことしたって思ったの」「……」「だからお願いします。ナオちゃん、許してください。私とこれからも、仲良くしてください」「……もう、怒ったりしない?」「しません。だってナオちゃん、私のことを綺麗って誉めてくれたんでしょ?」「うん……」「私のこと、かわいいって思って
「べっぴんさん?」「そう、べっぴんさん。かわいい女の子のことを、そう言うのよ」「かわいい女の子……つぐみちゃんみたいな子?」「ふふっ、そうね。つぐみちゃんはかわいいもんね」「うん。つぐみちゃんよりかわいい女の子、いないと思うよ」「あらあら、ふふっ……直希は本当、つぐみちゃんのことが大好きね」「うん、大好き。ねえ母さん、つぐみちゃんにべっぴんさんって言ったら、喜んでくれるかな」「そうね。つぐみちゃんもきっと、喜んでくれると思うよ」「じゃあ今度、つぐみちゃんに言ってあげる」「直希は本当、優しいね」 * * * 次の日。 保育園でつぐみの姿を見つけると、直希は一目散に駆け寄った。「つぐみちゃんつぐみちゃん。あのねあのね」「おはようナオちゃん。どうしたの?」「僕ね、つぐみちゃんに言いたいことがあるんだ」「私に? 何かな何かな。いいこと?」「うん。つぐみちゃんが喜ぶこと」「えー、早く言ってよナオちゃん」「うん。じゃあ言うから、ちゃんと聞いてね」「うん」 直希はつぐみの手を握り、顔をみつめた。「え……ナオちゃん、どうしたの? なんか恥ずかしいよ」「つぐみちゃん」「は……はい……」「つぐみちゃんは……べっぴんさんだね!」 満面の笑みを浮かべ、直希がそう言った。「……」 しかし、べっぴんさんと呼ばれたつぐみは、直希の予想に反し、驚いた表情で固まった。 そしてうなだれるようにうつむくと、小さな肩を震わせた。「馬鹿っ!」 言葉と同時に、直希の頬を張った。
「つ、疲れたわ……」「つぐみさん、大丈夫ですか」「ええ……菜乃花もお疲れ」「いえ、私は別に……でもその、今の山下さん……」「ええ、かなり記憶が混乱してたみたいね」「そんな……山下さんが認知症……」「明日お父さんに伝えておくわ。この前みたいに、一時のことだといいんだけど」「……」「菜乃花?」「あ、いえ……すいません。私、何も出来なくて」「何言ってるの。こんな現場に遭遇したの、初めてでしょ? 誰だって戸惑うわよ」「でもその……直希さん、あんな自然に」「そうね……直希の演技には本当、驚かされるわ」「そう、ですよね……でも直希さん、山下さんの様子にも全然驚いてなかったみたいでしたよね」「そんなことないわよ。直希も心の中じゃ、パニックになってたと思うわ」「そうなんですか?」「だと思うわよ。いつも普通に接していた入居者さんが、急にあんな風になるんだから。でも、今日は菜乃花もいてくれてよかったわ。こんなこと言ったら山下さんに悪いけど、いい経験になったと思う」「あ、はい……でもこんなこと、本当にあるんですね」「現場ではよくあることよ。でもね、菜乃花。どんな時にも言えることなんだけど、とにかく私たちは、冷静に対応しなくちゃいけないの。直希だってきっと、怖かったと思う。辛かったと思う。でもそれを見せずに、これまで培ってきた経験と、山下さんの情報を頭の中に総動員させて、ああして祐太郎さんを演じきったの」「はい……すごいと思いました」「どれだけ入居者さんの情報を持っているか。こういう時
「そう言えばあおい、今頃どうしてるかしら」「明日香さんと宴会中、なんじゃないかな」「温泉旅行、ですもんね」「しかしびっくりしたよな。明日香さん、温泉旅館のタダ券持って、この前のお詫びにどうですかって」「直希と行く気だったけどね」「つぐみはそう言うけど、それはないと思うぞ。だって俺には、ここの仕事があるんだから」「明日香さんだって、そんなことぐらい分かってるわよ。その上で誘ってきたのよ」「スーパーで、タダ券二枚もらったんだよな」「でも、直希さんに断られて」「あんな分かりやすいがっかり顔、中々見れないわよね」「それでみぞれちゃんとしずくちゃんが、あおいさんを誘って」「この前一緒に遊んでから、随分仲良くなったからね」「おかげで今日は、随分静かだったわ」「特に、その……食堂が……」「だね。一番元気に食べる子がいなかったんだから。入居者さんたちも、気のせいかちょっと寂しそうだったし」「気のせいなんかじゃないわよ。生田さんなんて、私に何回も聞いてきたんだから。あおいはいつ帰ってくるんだって」「生田さん……随分と変わりましたよね」「そうね。あおいのおかげかしら、ふふっ」 そう言って三人、顔を見合わせ笑った。 その時だった。「祐太郎さん!」 食堂に響き渡った声。 聞きなれない名前。 三人が声の方を見ると、そこには貴婦人、山下が立っていた。「え……山下さん?」「直希、祐太郎さんって言ったら、まさか」「ああ……亡くなった旦那さんだな」 直希が二人に目配せすると立ち上がり、山下に微笑んだ。「どう……したのかな、恵美子さん」「どうしたじゃありません
8月31日の夜。 直希とつぐみ、そして菜乃花が食堂に集まっていた。 明日から9月。 菜乃花の新学期に向けて、これからの仕事の割り振りを決める為のミーティングだった。「菜乃花ちゃんにとっては、高校生活最後の二学期。体育祭に文化祭と行事もあって、何より卒業後の進路を決める大切な時期だ。 あおい荘で働いてくれて、正直すごく助かってる。特にこの前、俺が倒れた時には本当、迷惑をかけてしまって」「そうね。そのことに関しては本当、菜乃花に感謝し続けて頂戴よ。勿論、私やあおいにもね」「分かってるって。あんまりいじめるなよ」「あ、でもその……直希さん、元気になられて、本当によかったです」「ありがとう。菜乃花ちゃんは優しいね」「あ、いえ……そんなこと……」「優しくなくて悪かったわね」「いやいや、その突っ込みは来ると思ってたけど、そういう意味じゃないから」「分かってるわよ、ふふっ」「菜乃花ちゃんにとってこれからの数年は、人生で一番大切な時期になる。仕事を手伝ってくれるのは本当に嬉しい。でも今はそれ以上に、これから自分がどうしていきたいのかを、しっかり考える時間を持ってほしいんだ」「はい。ありがとうございます」「菜乃花は将来の夢とか、あるのかしら」「夢……ですか」「ええ。大学に進学するのか、働こうと思ってるのか。専門学校という道もあるわね」「私は、その……頭もよくないし、無理して大学に行っても仕方ないかなって思ってます」「そうなの? 今からでも頑張ったら、まだまだ間に合うと思うけど。それに、大学は勉強だけじゃない。友達も出来ると思うし、新しい発見や出会いもあると思うわよ」「でも私、友達を作るのも苦手だし……大学に行っても、その……今より多くの人たち